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机の上の黒縁メガネ

机の上の黒縁メガネ

今現在はストレスフリーを生活信条に生きている、僕の抱いていた3つのコンプレックスを告白します。

少々長くなりそうですが、ざっと目を通していただけると僕がなぜ「ストレス」をテーマにしたサイト製作に携わっているのか。それを感じてもらえるのではないかと思っています。

 

1.他人の心を読み過ぎて自分を出せない

誕生直後に両親が離婚

僕が出生した直後に母親がどこかへ蒸発したため、父親の男手ひとつでしばらく育てられました。

今でこそシングルファーザーも珍しくありませんが、当時はまだ世間の偏見にさらされていたと思います。

会社に勤めながら1人で幼い子供の面倒をみるのは楽ではなく、やがて2人で父親の実家に戻りました。戻った実家には父の兄とその家族が同居しており、1人だけ毛色の違う僕は居心地の悪さを感じながら周りの大人の顔色をうかがうように暮らしました。

やがて父が再婚し、新しい母親がやってきました。父は家を建て、僕らを連れて実家を出ました。

母親にとって僕は余計な荷物であることは明らか。顔色をうかがう中で発達したアンテナが知らせます。なぜなら僕が単なる過去の結婚生活の名残りだから。ここでも、大人の顔色をうかがう暮らしが続きます。

こうした幼少期の体験が「他人の心を読む」という僕のアンテナを過敏にしたのだと思っています。

おかげで子供らしい感情表現の機会を失いましたが、大人になった今でも他人の心は理解できるほうです。これらの経験もムダではありませんでした。

僕は母親に嫌われているのがわかっていたから、なるべく邪魔にならぬように静かにしていました。弟が生まれてから、透明人間にでもなったようにますます僕は構ってもらえなくなりました。

当時をカッコよくいうと「母の愛情に飢えていた」とでもいうのでしょうか。

小学生で補導歴6回

自分を抑圧してきた反動で7歳の頃には僕は荒れ放題。小学生時代だけでも6回の補導歴があります。理由は、万引・恐喝・ケンカ・放火・家出などなど。漫画じゃないけど暴走族の集会にも参加していました。

月曜日の朝礼では、学校の恥だと全校児童の前で謝罪をさせられ、「皆もこんな人間にならないように!」と校長や教頭によって見せしめにされ、吊し上げられました。

悪童の僕の根性を叩き直そうと思った両親は、9歳のとき僕を町の空手道場に入門させました。結果、悪事に使う便利な道具が増えただけでした。本当にどうしようもないクソガキだったと思います。

6回の補導歴のうち2回は身元引受け拒否で両親が警察署に迎えに来ず、赤色灯をつけたパトカーで自宅まで送られるはめになりました。

両親は余計に近所に恥ずかしい思いをしたはずです。庭先で「パトカーはタクシーじゃないよ?」と言われ「すみません」とうつむく母親。

当然、近所の大人達から「悪童」「問題児」として認識され「あの子と遊んじゃだめだよ」と避けられ、存在自体を疎まれていました。

ある時、後輩が僕に上納金を持ってこようとして親の財布から1万円札を盗んできたことがあります。

僕は必要なお金は仲間以外から調達していたので後輩に上納金を要求したことはありません。同様のことが2度あり、2度目に足がつきました。その後輩の家に母親と2人で謝罪に行きました。

母親と他人の家に謝りに行くのは日常茶飯事で、僕は「面倒な仕事」としか思わず反省もしません。

ところがその日、母親は泣きながら土下座していました。土下座の上から罵声を浴びる姿に僕は初めて、心が痛みました。目の前の、その母親がとても哀れに思えました。

自業自得なのですが、何故かそのとき子供心に「親の仇をとってやる」と心に誓いました。

今までかけた苦労や心配の恩返し、親孝行を。そして絶対にあいつらを、世間を見返してやる。

早目の反抗期は7歳-12歳の5年間で終わります。

親孝行が新しい目標に

金髪・赤毛・モヒカン・短ラン・ボンタン・金属バット。

中学ではそれまでの仲間を離れて孤立を深めました。遠巻きに避けられ、無視される孤独を知りました。自分の殻に閉じこもった中学時代は僕の冬の時代です。

3年生で猛勉強して、県下有数の進学校に入りました。初めて「まともな青春」を謳歌したような気がします。いい仲間に囲まれたくさん笑って恋や勉強もしました。

また3年生で猛勉強して国立大学に現役合格しました。僕は経済学部経営学科に所属しました。

「よくやったな!!」両親は泣いて喜んでくれました。僕は親孝行という目標を達成できたんだと感じました。人生で一番うれしかったのはこの時かもしれません。

2.やらなかった後悔を引きずった20年間

目標を達成して燃え尽きた、そんな感じです。大学に合格するところまでが目標だった僕は入学したことで、その先の目標を見失いました。

授業に興味はなく、学食に飯を食いに行くだけ。バイトに明け暮れ、休みは部屋でガラにもない哲学書を読む。バイト代はパチンコと週2回のコンパに消える。

そんな日々が退屈で「もっと面白いことを」と200名規模のお遊びサークルを作ったりして。定例の飲み会やキャンプや海や花火大会などで遊びほうけている、バカの化身でした。

こんな自堕落な暮らしに浸かり切った僕は、やはり単位をとれずに2年生で留年しました。しばらく挫折知らずにやってきた僕にとって、この留年はショックでした。

「切り替えよう。留年したからには何か特別な体験をしよう」「そうすれば就活のアピールにもなるだろう」

置き去りのままの夢

僕は、密かな夢に挑戦することに決めます。それは「第二の尾崎豊になる」という夢。

このときすでに僕は20歳で、歌手を目指すには少々遅い年齢でした。思い立ったが吉日で即日写真を撮って応募、書類審査・オーディションを無事通過して僕はn.a.cという団体の養成所に所属しました。

オーディションで1000人の前で15の夜を歌ったことは今でもいい思い出です。

大学とは違い「デビュー」という明確な夢に向かう空気感は、とても楽しいものでした。

しかし、月々のレッスン料と交通費が重く現実にのしかかります。

それらの費用をまかなうためにバイト三昧。昼はレンタルCDショップ、夜はショットバーでバイトに明け暮れる暮らしに突入します。

「そんな不安定な職業はやめたほうがいい」「お前なんかがデビューできるはずがない」「成功するのはほんの一握りのスターだけ」。

バイト漬けで疲れた心と身体に浴びせられる、周囲のそんな言葉に決意はグラつきます。

「外野は好きにほざいてろ!」「一度きりの自分の人生だ!」。その度に、そう思い直してやってきました。

しかしバイトの忙しさから大学の授業には出席しておらず、結果2度目の留年が決定。僕はとどめを刺されました。

「留年してない連中にはない経験をしよう」。そう思ってやってきて2度目の留年をした。

「自分のやってきたことは間違いなのか?」。自分の抱いた夢が根底から否定された思いでとうとう僕は崩れ、外野の言葉に流されました。

その後、養成所は休学から退学という流れに。僕は夢の入り口を自分で閉ざしました。そのときのことは20年近く経った今でも、思い出すたび傷口が痛みます。

「あの時、夢に突き進んでいたらどうなっていたかな。今みたいな会社員じゃないかもな」。やった後悔よりやらなかった後悔のほうが後を引くといいますが、本当にその通りです。

3.うつの既往歴という負い目

うつ発症(1回目)

結局、2回の留年を経て大学を卒業した僕はトヨタ系新車ディーラーで7年間、営業に携わります。

個人・法人・幅広い年代・男女問わない顧客に関われる営業はクルマだろうと思ったからです。いろんなタイプの人と関わることで営業力を磨きたかった。

元々、修行のつもりで入社した僕は7年で辞め、関心のあった介護の世界に転身しました。環境は激変し、そこではヘルパーとして日勤も夜勤もこなしました。

数か月のうちに、思いがけず事務長に昇進して現場を離れることになりました。いきなり大きな決定権と責任とを同時に渡されて僕は途方にくれました。

先週までの先輩・上司が敬語を使いはじめます。誰だっておかしくなると思いませんか?しかも最初の仕事が、新規施設の立ち上げです。

  • 初めてのことだらけ
  • 多忙なスケジュール
  • 大きすぎる責任と裁量
  • 孤独感

これらが重なったためだろうと思いますが、心身に異常をきたし、うつと診断を受けます。結局、そうした心身の健康を損なったことと施設の拝金主義への罪悪感から僕は退職しました。

このときはまだ、うつというものをそれほど深刻に捉えていませんでした。「自分がそんなわけないだろ」と。3か月ほどの休養を挟み、同業界を避けて再び営業の世界へ戻りました。

うつ再発(2回目)

腕に覚えがある世界のため結果を出すのは早く、ほどなくマネージャーという肩書と数名の部下を与えられました。

しかし、それと同時に僕に与えられたものは前年比150%の営業目標に対する重圧と責任。販売する度ついてまわる顧客のクレーム対応。

連日午前2時までの残業で慢性的な睡眠不足。顧客の都合で容赦なく入る休日出勤。噴出する家族からの不満。

こうした複合的要素により次第に僕は心身共にストレスを募らせていきました。やがて明らかな変化が出始めます。「物忘れ」「集中力の低下」「動作の緩慢」僕の場合はそんな変化でした。

そんなある日、運転中にパニック発作に襲われました。息が吸えなくなり手の指先が痺れはじめ、目の前が暗くなってくる。クルマを路肩に停めるのがやっとでした。冗談抜きで「呼吸困難で死ぬ」という恐怖。

その後、発作が頻発し通常の業務の遂行が困難になり休職を余儀なくされました。うつの再発でした。今度は8か月間の休職になりました。

こんなに長い空虚な時間があったのは社会に出て以来、初めてのことでした。生死を含め様々なことを思いました。

無収入の期間というのは思った以上に精神的ダメージが大きいと知りました。また「会社に迷惑をかけてしまい申し訳ない」という激しい自責の念に駆られました。

こんな僕が社会復帰できるのだろうかと不安に押し潰されそうにもなりました。

「焦るな」といわれても焦ったり、DVDや漫画を読んでも楽しいと思えず、人生をサボっている自分に罪悪感を抱く。

毎日、自分を責めて暮らしていました。

うつ再々発(3回目)

それでも、周囲のサポートのおかげで僕は何とか復職することができました。復職にあたり、主治医からはこう言われました。「くれぐれも今までの分を取り戻そうとしていきなり張り切り過ぎないように」。しかし、現実にはそうもいきません。

復帰3ヶ月後には休職前の2倍のノルマを抱え、また新しく立ち上げた部門の副責任者として未経験の仕事も任されるようになりました。

病み上がりにもかかわらずロケットスタート&フルスロットルで僕の疲労はとっくにピークを迎えていました。

それでも僕は休職中の虚無感を晴らすように精力的に働きまくりました。単純に「する仕事がある」ことがうれしかった。

気がつくとまた午前2時まで残業をする日々。顧客都合による容赦無い休日出勤。そして再々発…。今から思い返せば、それは当然の流れでした。

休職明けの復職後1年余りのことでした。自分も「もう無理だろう」と思いました。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」といいますが、僕は調子に乗って飛ばし過ぎたようです。「歩くのもやっとなのに、全力疾走するから」と主治医には言われました。

絶望的な状況の中、唯一のアドバンテージは、前回の経験でうつに関する知識があったこと。

療養中の注意点、そして考え方や行動をどう修正すればよいのかは大体わかります。もちろん楽な日々ではありませんでしたが、前回よりも早くトンネルを抜けられました。

現在、3回目の発症から10年近く経ちますが元の職場で元気にやっています。

そして、ストレスフリーナビゲーターというライフワークにも取り組んでいます。

僕には3度も絶望の淵から戻ってきた経験から得たことを、同じように苦しむ人に伝える義務があると感じています。

それは何もうつに限らず、ストレスや悩みの段階であっても役に立つことだと思います。

あなたはムダに苦しむ必要はありません。僕の人生経験にレバレッジをかけて生きてください。知識と経験をシェアする用意をして待っています。最後までお付き合い頂きありがとうございました。

【追記】2018年9月

その後も再発することはなく、現在は独立し、Webメディア運営会社を経営しています。